窓の結露
このところの寒さでさすがの二重窓にもわずかに結露が見られますが、滴が垂れて窓枠に溜まるようなこともなく、日が昇ると蒸発してしまいます。
床下の石油FF温風暖房機が24時間乾いた温風を出しているのに加えて第一種換気システムが機能しているので、湿度は50~60%ほどに保たれ、基礎コンクリートが乾き切るまで一年は出るという湿気も全く苦になりませんが、明け方に室内の温度が1~2度低下して相対湿度が上昇するからでしょうか、外気が冷え切ると窓に結露ができるようです。

以前住んでいた家のサッシは一枚ガラスでしたが、滴をふき取る布がびしょぬれになるほどの結露で、またトイレと浴室、台所には個別に換気扇がありましたが、系統だった換気システムといえるものは設備されていませんでした。
暖房はエアコンを使っていましたし、新居と比較して特に湿度が高くなる要因はありませんでしたので、新旧の家の結露の違いは、換気システムの性能が一番大きく結露に影響しているように思えます。
屋内で発生する種々の湿気をしっかり排出できるかどうか、更にペアガラスによるガラス面の温度差の低減も多少は効果がありそうな気がします。
いずれにしてもいろいろな点で新しい技術や考え方が導入された家は快適で住みやすく、これから20年後、30年後の家はどのように進化しているのか、できることなら体験してみたいと思います。
今年は定年退職、盛岡への転居など我が家にとっては大きな節目となった年でした。
また記事を読んでいただいたりコメントを残してくださった方々のおかげで、ブログを書く意欲を大いにかき立てられた一年でもあました。
来年はどんな年になりますか、良い年にするよう積極的に動いていきたいと思います。
皆さま、良いお年をお迎えください。

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床下の石油FF温風暖房機が24時間乾いた温風を出しているのに加えて第一種換気システムが機能しているので、湿度は50~60%ほどに保たれ、基礎コンクリートが乾き切るまで一年は出るという湿気も全く苦になりませんが、明け方に室内の温度が1~2度低下して相対湿度が上昇するからでしょうか、外気が冷え切ると窓に結露ができるようです。

以前住んでいた家のサッシは一枚ガラスでしたが、滴をふき取る布がびしょぬれになるほどの結露で、またトイレと浴室、台所には個別に換気扇がありましたが、系統だった換気システムといえるものは設備されていませんでした。
暖房はエアコンを使っていましたし、新居と比較して特に湿度が高くなる要因はありませんでしたので、新旧の家の結露の違いは、換気システムの性能が一番大きく結露に影響しているように思えます。
屋内で発生する種々の湿気をしっかり排出できるかどうか、更にペアガラスによるガラス面の温度差の低減も多少は効果がありそうな気がします。
いずれにしてもいろいろな点で新しい技術や考え方が導入された家は快適で住みやすく、これから20年後、30年後の家はどのように進化しているのか、できることなら体験してみたいと思います。
今年は定年退職、盛岡への転居など我が家にとっては大きな節目となった年でした。
また記事を読んでいただいたりコメントを残してくださった方々のおかげで、ブログを書く意欲を大いにかき立てられた一年でもあました。
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お祝いランチ(ル・グラン・ブルー)
盛岡に落ち着いてからは美味しくて安価なさまざまな食材がいつでも手に入るのでほとんど内食の毎日でしたが、小さなお祝い事が二つ重なったので妻と二人、忘年会も兼ねて久しぶりに外でランチを楽しむことになりました。
場所は我が家から歩いて20分ほど、父の代から通うお寿司屋さんのとなりの小さなお店Le Grand Bleuで、気にはなっていたのですが今回初めてお店に入りました。

前菜はベーコンを巻いたサイマキときのこのキッシュのトマトソース。

スープはカニの入ったブロッコリのスープ、とてもコクがありました。

魚のお皿はメバルの紫蘇風味バターソース、濃厚なソースが美味。

肉料理はトリフュたっぷりのポークソテー、ズッキーニとポテト添え。
お皿がテーブルに置かれた途端、トリフュの香りに包まれてしまいました。

デザートはクリームを添えたフルーツ、チョコレートケーキ、シャーベットの盛り合わせ、ボリュームたっぷりです。

そして最後はお茶、自家製のクッキーと一緒にでてきました。

ワインをいただきながらゆっくり食事を楽しむこと1時間半ほど、レジで妻が「とても美味しかったです。」と伝えたら、シェフの奥様でしょうか、すばらしい笑顔が返ってきた楽しいひと時でした。

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前菜はベーコンを巻いたサイマキときのこのキッシュのトマトソース。

スープはカニの入ったブロッコリのスープ、とてもコクがありました。

魚のお皿はメバルの紫蘇風味バターソース、濃厚なソースが美味。

肉料理はトリフュたっぷりのポークソテー、ズッキーニとポテト添え。
お皿がテーブルに置かれた途端、トリフュの香りに包まれてしまいました。

デザートはクリームを添えたフルーツ、チョコレートケーキ、シャーベットの盛り合わせ、ボリュームたっぷりです。

そして最後はお茶、自家製のクッキーと一緒にでてきました。

ワインをいただきながらゆっくり食事を楽しむこと1時間半ほど、レジで妻が「とても美味しかったです。」と伝えたら、シェフの奥様でしょうか、すばらしい笑顔が返ってきた楽しいひと時でした。

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南部盛岡城下二十八町と上の橋界わい
江戸の八百八町には比べるべくもない規模ですが、盛岡南部藩の時代、盛岡の街にも二十八の町名が割り当てられていました。
藩政時代、八幡様の祭礼には二十八町から出た山車が練り歩く順番まで決められているなど、当時の生活に密着した町割りだったようです。
私がこの町で育った40年ほど前まではそれらの町名は結構残っていて、バス停もそれらの名にちなんだものがたくさんありました。
旧市街は半径数キロと小さく学生時代は自転車で移動していたせいもあって、町中どこにどんな店があって何を売っているか(誂えの太鼓や臼屋、石油ランプ屋もありました)など、ほとんどの通りや路地まで分かっていました。(それだけ小さな町だったのですね。)
以前は古い町名(藩政時代当時の行政区にあたるものだろうと思います)に加えて、帷子小路(かたびらこうじ)、下小路(したこうじ)、葺手町(ふくでちょう:屋根葺き職人町)、など武家屋敷街を指す小路や町人が住まう町などはっきりと区分けされた情緒あふれる名前がたくさん残る街でした。
ところが37年ぶりに盛岡に戻ってみると新町名にかわっていて場所もよく判らず、残っている旧町名はほんの数えるほどになってしまいました。
加えて長い不在ブランクでまだ残る旧町名の場所も記憶が定かで無くなっていることもあり、なにかよい資料はないものかと探していましたが、やはりありました。
盛岡の文化地層研究会編 城下盛岡旧町名探求地図です。

腰を据えてじっくり地図を読んでみると、旧町名の鷹匠小路なども一目瞭然、おまけに藩政時代の史跡まで載っていて、盛岡城下外曲輪(そとくるわ)にいくつかあった、他国に通じる街道を警備する惣門の場所がわかるなど、町歩きにはかっこうの新旧対比地図であることが分かりました。
その地図を参考に中津川に架かる上の橋(かみのはし)界わいを歩いてみました。
まづは上の橋の上流500メートルほどの川べりに川留稲荷(かわどめいなり)があります。たびたび氾濫を繰り返す中津川を鎮めるために時の藩主が建立した300年以上の歴史のある神社です。

川留稲荷のすぐ裏にある中津川には鮎や鮭が遡上しますが、冬にははるばるシベリアから白鳥やカモが訪れます。

下って旧紙町の上の橋、慶長14年(1609年)に架けられた橋の欄干には慶長14年、16年の銘のある擬宝珠が18個現存しています。(橋自体は流されるたびに何度も架け替えられています。)

上の橋たもとには創業明治5年のお餅屋さんがあって、茶店も併設しているのでお餅も食べられます。

旧紙町界隈のお店。

餅屋さんがある角を南に下りると、旧町名鍛冶町には創業以来220年の伝統をもつ造り酒屋。

貴重な旧町名が今もそのまま残る紺屋町の「よ組番屋」までは100メートルもありません、大正12年(1913年)の建築です。
上の橋の下流、番屋の隣りに架かる橋はよ組から取ってよの字橋と名づけられています。

さらに100メートルほど下ると200年近く前に創業した茣蓙九(ござく)、江戸から明治まで増築して間口がとても広い建物です。昔はゴザや畳、今は雑貨などを扱っているようです。

消え行く城下町の風情ですが、この先の肴町やその先にもあちこちに伝統ある建物や史跡が残っています。
こうした地図とともにそれを残そうと努力している人たちがいるということを知り、なにかお手伝いができればと思います。
雪が降る前に撮りためた写真ですので、つづきは暖かい春になったらあちこち歩いてみたいと思います。

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私がこの町で育った40年ほど前まではそれらの町名は結構残っていて、バス停もそれらの名にちなんだものがたくさんありました。
旧市街は半径数キロと小さく学生時代は自転車で移動していたせいもあって、町中どこにどんな店があって何を売っているか(誂えの太鼓や臼屋、石油ランプ屋もありました)など、ほとんどの通りや路地まで分かっていました。(それだけ小さな町だったのですね。)
以前は古い町名(藩政時代当時の行政区にあたるものだろうと思います)に加えて、帷子小路(かたびらこうじ)、下小路(したこうじ)、葺手町(ふくでちょう:屋根葺き職人町)、など武家屋敷街を指す小路や町人が住まう町などはっきりと区分けされた情緒あふれる名前がたくさん残る街でした。
ところが37年ぶりに盛岡に戻ってみると新町名にかわっていて場所もよく判らず、残っている旧町名はほんの数えるほどになってしまいました。
加えて長い不在ブランクでまだ残る旧町名の場所も記憶が定かで無くなっていることもあり、なにかよい資料はないものかと探していましたが、やはりありました。
盛岡の文化地層研究会編 城下盛岡旧町名探求地図です。

腰を据えてじっくり地図を読んでみると、旧町名の鷹匠小路なども一目瞭然、おまけに藩政時代の史跡まで載っていて、盛岡城下外曲輪(そとくるわ)にいくつかあった、他国に通じる街道を警備する惣門の場所がわかるなど、町歩きにはかっこうの新旧対比地図であることが分かりました。
その地図を参考に中津川に架かる上の橋(かみのはし)界わいを歩いてみました。
まづは上の橋の上流500メートルほどの川べりに川留稲荷(かわどめいなり)があります。たびたび氾濫を繰り返す中津川を鎮めるために時の藩主が建立した300年以上の歴史のある神社です。

川留稲荷のすぐ裏にある中津川には鮎や鮭が遡上しますが、冬にははるばるシベリアから白鳥やカモが訪れます。

下って旧紙町の上の橋、慶長14年(1609年)に架けられた橋の欄干には慶長14年、16年の銘のある擬宝珠が18個現存しています。(橋自体は流されるたびに何度も架け替えられています。)

上の橋たもとには創業明治5年のお餅屋さんがあって、茶店も併設しているのでお餅も食べられます。

旧紙町界隈のお店。

餅屋さんがある角を南に下りると、旧町名鍛冶町には創業以来220年の伝統をもつ造り酒屋。

貴重な旧町名が今もそのまま残る紺屋町の「よ組番屋」までは100メートルもありません、大正12年(1913年)の建築です。
上の橋の下流、番屋の隣りに架かる橋はよ組から取ってよの字橋と名づけられています。

さらに100メートルほど下ると200年近く前に創業した茣蓙九(ござく)、江戸から明治まで増築して間口がとても広い建物です。昔はゴザや畳、今は雑貨などを扱っているようです。

消え行く城下町の風情ですが、この先の肴町やその先にもあちこちに伝統ある建物や史跡が残っています。
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雪が降る前に撮りためた写真ですので、つづきは暖かい春になったらあちこち歩いてみたいと思います。

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