きのうのあさごはん ひるごはん よるごはん
リタイヤしてからは週末という概念はあまりありませんが、ときどき「世間では今日は週末か」と思い起こすことがあります。
朝ごはんは人参油揚げ入りのひじき、車麩、寒締ほうれん草のお浸し、大根おろし、自家製ちりめんじゃこ佃煮、ヤリイカの煮付け、大根きゅうりの味噌漬け、納豆にじゃがいもの味噌汁です。
おかずがたくさんだったのでついついごはんをおかわりしてしまいました。

そしてこれがお昼の食事です。
前夜から台所でなにやらやっていましたが、玉ねぎ1キロと牛肉にパプリカをたっぷり加えて3時間煮込んだグーラッシュというハンガリー起源の料理、BS放送の「辻仁成の冬のパリごはん」という番組を見て作ってみたくなったのだそうです。
野菜はほのかな甘みがあって春を思わせるうすみどり色のロマネスコをさっと茹でたもの。
玉ねぎの甘さと肉の旨味、そしてパプリカの彩りも鮮やかなひと皿、美味しくいただきました。

我が家ではいつも夜はつまみとなる品が並び、それに合うお酒を飲んでおしまい、ごはん類はなしです。
新玉ねぎとおかか、アスパラガス、アボカド、生ハムのサラダ、レーズン入にんじんのラペ、燻製豆腐、とりわさのワンプレート。特に燻製豆腐はチーズといっても通りそうな味わいでたいへん美味!
大根おろし、ミニきゅうり、なす、だいこん(皮)のぬか漬けを添えました。

こうしてみるとほとんどが野菜類のおかずです。
若い頃は野菜はあまり食べませんでしたが年齢とともに嗜好も変わるようですし、ぬか漬け担当でもあるので野菜の消費量が以前に比べてずいぶんと増えたようなきがします。
朝ごはんは人参油揚げ入りのひじき、車麩、寒締ほうれん草のお浸し、大根おろし、自家製ちりめんじゃこ佃煮、ヤリイカの煮付け、大根きゅうりの味噌漬け、納豆にじゃがいもの味噌汁です。
おかずがたくさんだったのでついついごはんをおかわりしてしまいました。

そしてこれがお昼の食事です。
前夜から台所でなにやらやっていましたが、玉ねぎ1キロと牛肉にパプリカをたっぷり加えて3時間煮込んだグーラッシュというハンガリー起源の料理、BS放送の「辻仁成の冬のパリごはん」という番組を見て作ってみたくなったのだそうです。
野菜はほのかな甘みがあって春を思わせるうすみどり色のロマネスコをさっと茹でたもの。
玉ねぎの甘さと肉の旨味、そしてパプリカの彩りも鮮やかなひと皿、美味しくいただきました。

我が家ではいつも夜はつまみとなる品が並び、それに合うお酒を飲んでおしまい、ごはん類はなしです。
新玉ねぎとおかか、アスパラガス、アボカド、生ハムのサラダ、レーズン入にんじんのラペ、燻製豆腐、とりわさのワンプレート。特に燻製豆腐はチーズといっても通りそうな味わいでたいへん美味!
大根おろし、ミニきゅうり、なす、だいこん(皮)のぬか漬けを添えました。

こうしてみるとほとんどが野菜類のおかずです。
若い頃は野菜はあまり食べませんでしたが年齢とともに嗜好も変わるようですし、ぬか漬け担当でもあるので野菜の消費量が以前に比べてずいぶんと増えたようなきがします。
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白鳥に会いに高松の池へ(盛岡市 高松公園)
天気が良かったので久しぶりに盛岡市内の北側にある高松の池を訪れました。
5ヘクタールほどの広さの池は市の公園になっていて、春になると池の周囲に植えられた1,200本を越える桜の古木が一斉に開花する桜の名所ですが、池はほぼ全面凍りついていました。
北からは北上川、西から雫石川、東からは中津川、梁川が流入して盛岡でこれらの河川が合流しており、昔は洪水が多い場所でした。
藩政時代初期1660年頃、盛岡のまちづくり、不来方(こずかた)城の築城にあたって低湿地であったこの地域の治水のため上田同心町の北詰付近から上、中、下の三段の上田堤が築かれ、わき水をせき止めてまちづくりを進めました。
このうちの中堤が現在の高松の池として残っており、この界隈にはいまでも上田堤、上堤頭、堤頭などが町名として残っています。

氷の上で日向ぼっこでしょうか、20羽ほどの白鳥が見えますが中にはまだ羽が白くなりきれていない若鳥も混じっています。

池の西側だけはわずかですが氷が割れた水面に白鳥や鴨がにぎやかな鳴き声をあげています。

足元には陸に上がって休んでいるオナガガモ?のつがい、気をつけて歩かないと躓いてしまいそうです。

こちらでは一列縦隊で行進中、ひとを恐れる気配がありません。

餌がもらえると思うのか、水辺に立つと鳥たちがどんどん集まってきました。

5ヘクタールほどの広さの池は市の公園になっていて、春になると池の周囲に植えられた1,200本を越える桜の古木が一斉に開花する桜の名所ですが、池はほぼ全面凍りついていました。
北からは北上川、西から雫石川、東からは中津川、梁川が流入して盛岡でこれらの河川が合流しており、昔は洪水が多い場所でした。
藩政時代初期1660年頃、盛岡のまちづくり、不来方(こずかた)城の築城にあたって低湿地であったこの地域の治水のため上田同心町の北詰付近から上、中、下の三段の上田堤が築かれ、わき水をせき止めてまちづくりを進めました。
このうちの中堤が現在の高松の池として残っており、この界隈にはいまでも上田堤、上堤頭、堤頭などが町名として残っています。

氷の上で日向ぼっこでしょうか、20羽ほどの白鳥が見えますが中にはまだ羽が白くなりきれていない若鳥も混じっています。

池の西側だけはわずかですが氷が割れた水面に白鳥や鴨がにぎやかな鳴き声をあげています。

足元には陸に上がって休んでいるオナガガモ?のつがい、気をつけて歩かないと躓いてしまいそうです。

こちらでは一列縦隊で行進中、ひとを恐れる気配がありません。

餌がもらえると思うのか、水辺に立つと鳥たちがどんどん集まってきました。

久しぶりにカモシカの親子が姿をみせました
二階でPCをいじりながらふと外を見るとカモシカが目にとまりました。
お向かいの二階の屋根越しの斜面でゆっくり立ち止まっては小枝やまだ固い新芽を食べながら歩いています。
お母さんとフサフサの明るい毛皮を着た生後1年になる子をつれた親子のカモシカです。

やがて斜面を下りながら餌を食べています。
生まれて1年、親から一番大変な冬を過ごす術を授かったカモシカの子は間もなく親から離れて独り立ちします。

特に急ぐわけでもなく、ゆっくりした足取りで斜面をのぼり、やがて視界から消えていきました。

距離が近いのでこちらに気がついているはずですが二頭は特に気にする様子もなく餌を食べながら進んでいます。
厳しい冬を無事越したカモシカの子が順調に育ち、何年かしたら自分の子を連れて姿を見せてほしいものです。
お向かいの二階の屋根越しの斜面でゆっくり立ち止まっては小枝やまだ固い新芽を食べながら歩いています。
お母さんとフサフサの明るい毛皮を着た生後1年になる子をつれた親子のカモシカです。

やがて斜面を下りながら餌を食べています。
生まれて1年、親から一番大変な冬を過ごす術を授かったカモシカの子は間もなく親から離れて独り立ちします。

特に急ぐわけでもなく、ゆっくりした足取りで斜面をのぼり、やがて視界から消えていきました。

距離が近いのでこちらに気がついているはずですが二頭は特に気にする様子もなく餌を食べながら進んでいます。
厳しい冬を無事越したカモシカの子が順調に育ち、何年かしたら自分の子を連れて姿を見せてほしいものです。